障害者と健常者のあいだ

2011年8月17日 (水)

「こんなやつもおってええやん」っていう世の中に

 「『こんなやつもおってええやん』っていう世の中にちょっとでも近づいて行ければ」

 露の団六さんが言ったそのひとことが、すごく自然で心地よかった。

 ダウン症のお兄さんがいる落語家の露の団六さんが、知的障害のある人たちに落語を楽しんでもらおうと、「バリアフリー寄席」を開いたのだそうだ。知り合いの方に教えていただいて、関西テレビのニュースで報道された動画を見た。

 動画が見られる「KTBニュース関西版」サイトはこちら。
 http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html#0377788

 こうした取り組みが進んで、さらには「バリアフリー寄席」と銘打たなくても、一般の寄席が、障害のある人も気兼ねなく楽しめる空間になればと思う。

(以下、関西テレビの「KTBニュース関西版」サイトから、転載。)

知的障害のある人たちに気兼ねなく落語を楽しんでもらおうと、大阪で「バリアフリー寄席」が開かれました。

北区の天満天神繁昌亭で開かれたこの寄席は、落語家の露の団六さん(52)が企画しました。ダウン症や自閉症など知的障害のある人は突然声を上げたり席を立ったりすることがあり、普段は周りに遠慮して劇場などに行くのをためらいがちだといいます。団六さんは自身の兄がダウン症だったこともあり、そうした人たちに気兼ねなく落語を楽しんでもらおうと、分かりやすい演目やお囃子を披露して会場は笑いに包まれました。

【訪れた人】「めっちゃ楽しかったです」「こんな機会なかなかないからすごくありがたいですね」

【露の団六さん】「こんなやつもおってええやんっていう世の中にちょっとでも近づいて行ければ」

団六さんはこうした寄席を今後も続けていきたいと話しています。

(2011/08/16 15:01 更新)

2010年9月26日 (日)

豊郷小学校旧校舎群で出会ったみなさん、ありがとうございました!

 車いすユーザーの若い人といっしょに、滋賀県豊郷町の豊郷小学校旧校舎群に行った。

 この校舎は、アメリカ人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した、「東洋一の小学校」といわれる名建築。約10年前に取り壊そうという動きがあったが、地元の人たちが保存運動に取り組み、現在は町の複合施設として使われている。

 最寄り駅の近江鉄道・豊郷駅は、駅員がいない「無人駅」だ。車いすで電車を乗り降りする時に使うスロープは、普通は駅員さんが用意してくれるが、ここでは、電車にスロープを積んでいて、運転手さんが出してくれる(事前に近くの有人駅に連絡が必要)。

 さて、訪れた旧校舎群。3階建てなのに、エレベーターが2階までしか通じていない。3階には、かなりの段数の階段を上がらなければ行けない。若い人の車いすは、重量のある電動車いすだったし、「これは、3階までは無理かなぁ?」と話していたら…。

 施設内にある町立図書館の館長さんが、すっと飛び出して行く。町教育委員会の職員さんに呼びかけてくださって、3人の方に手伝っていただけることになった。近くにある町役場から、手押しの車いすを借りてきてくださり、若い人を移乗させて、その車いすごと、よいしょ、よいしょと階段を上げていただいた。

 彦根から見学に来たという、見知らぬ若者たちも「手伝いたい」と言ってくれて、みなさんのあたたかい対応が心にしみた。どうもありがとうございました。

 ただ、施設について言えば、エレベーターが人目につかない場所にあってカギがかかっていたり、建物内を移動するには、「締め切り」「立ち入り禁止」と閉ざされているドアを何度も開けてもらわなければならなかったり、車いすユーザーが気軽に利用できる環境とはいいがたい。このあたりは今後、改善してもらえないかなぁと思った。

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2010年7月18日 (日)

「できる」「できない」の価値観がひっくり返る─赤阪はなさんの映画『はながゆく。』

*事実誤認の部分がありましたので、文章を一部修正しました(7月20日)。 

 重度の障害がある人は、“何もできない”? “一方的に支援を受ける存在”? そんな世間の思いこみを吹き飛ばし、あたりまえに働きたいと就職活動に駆け回っているのが、現在22歳の赤阪はなさんだ。

 その赤阪さんの生活を追ったドキュメンタリー映画、『はながゆく。』が完成した。

 この映画を観ると、これまで僕たちが当然のように信じてきた「できる」「できない」の価値観が、ガラリとひっくり返される。

 赤阪さんは、脳性マヒの障害で全身が動かないし、ことばを話さない。パソコンなどの機器を使って意思を伝えることもしない。ところが彼女は、母校の大阪府立桃谷高校や京都外国語大学に招かれて講師をつとめている。しかも、名講師として評価が高いのだ。

 「え、動けなくて、しゃべれないのに、どうして講師ができるの?」と不思議に思う人も多いかもしれない。

 その疑問に対して、赤阪さんを講師として迎えた桃谷高校の先生は、映画のなかでこう語る。

 「はなさんが何をできるかじゃなくて、はなさんの存在によって、他の生徒が何を得るかに注目した。はなさんがいることで、他の生徒たちが変わっていく。これは、たいへんな『教える』という作業をしていることだと思う」(※私の記憶で書いたので、ことばどおりではありません。だいたいの趣旨です。)

 京都外国語大学の「多文化理解とコミュニケーション」の講義で、赤阪さんと学生が対話する場面を授業のキーポイントにしている教授は、こう言う。

 「自分と異なる人とのコミュニケーションを経験することで、学生にコミュニケーションの深い可能性を発見してもらうのがねらい」 (※やはり、ことばどおりではなく、だいたいの趣旨です。)

 ベテランの教師でも、生徒の意識を変えるのは、なかなかできることではない。それを赤阪さんは、動くことが「できない」、ことばを話すことが「できない」ゆえに、出会う人に自分を見つめ直させ、変化させることが「できる」のだ。発想を変えてみれば、こんなに強力な講師はいない。

 日常の動作のすべてに介助が必要な彼女は、施設でもグループホームでもなく、かといって“自立生活”という名のひとり暮らしでもなく、「かかし荘」という下宿の世話人として、若者たちが共同生活する場をつくっている。

 「かかし荘」には、さまざまな思いをもった若者たちが続々と集う。そして、赤阪さんや住人たちと過ごしているうちに、自分を肯定できるようになり、元気になっていくのだという。どちらが一方的に支援しているのでもない、不思議な支えあいの関係がここに生まれている。

 人間は関係性のなかで生きる存在であり、つながり、支えあうことで、どんな人も豊かに生きていけるのではないか─。そんな可能性を実感させてくれる映画だ。未見の方は、ぜひご覧いただきたいと思う。

 現在、映画のDVDを販売している(個人価格:5000円、法人価格:20000円)ほか、上映会の企画を広く呼びかけている。関心のある方は、赤阪はなさんまでお問い合わせを。
 メールアドレス:akahana0218@yahoo.co.jp 
 ※メール送信の際は、アドレス中の@を半角に変えてください。

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6月13日に催された映画試写会には、
赤阪さんとゆかりのある150名の人が集まった

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大東市で行われた集まりで、
映画のDVDをアピールする赤阪さん(中央)

2010年7月11日 (日)

参院選投票日の民主党の新聞広告

 ここのところ仕事が煮詰まってしまっていて、ブログを更新できていないのだが…。今日は、どうしても、ひとこと言いたくなった。

 参院選投票日の今日、朝刊に掲載された民主党の広告。

 「菅直人です。率直にお話します。」「拝啓 国民のみなさま」と、菅首相が国民に向かって語りかける内容になっている。

 僕は下記のくだりを読んで、「あーあ」と力が抜けてしまった。

 この夏は日本列島を縦断しながら、たくさんの方々とお会いすることができました。朝早くから田んぼに出て、汗まみれで働く農家のみなさん。満員電車に揺られ、汗だくになって通勤するサラリーマンのみなさん。スーパーの買い物で一円十円を家族のために節約する奥さんたち。一つひとつの出会いが、貴重な体験でした。

 すべてを網羅するのは不可能なのはわかるけれども、「国民」に対するとらえかたの、このリアル感のなさはどういうことだろうか。

 遊説で日本列島を縦断するなかで、首相の目には、自立をめざして闘っている障害者も、働くシングルウーマンも、不規則な勤務に就いている非正規労働者も、地域貢献にがんばる高齢者も、全く映っていなかったのか。

2010年3月26日 (金)

「障がい」という表記は使いたくない

 「障害」を、「障がい」という表記に変えようという動きが広がっている。

 ネット検索してみると、いわゆる身体障害、知的障害、精神障害、発達障害だけでなく、更年期障害さえも「更年期障がい」と書き換えている例が見つかった。

 僕は、「障がい」表記には抵抗感があって、使いたくないと思っている。

 このことについて、先日、ある機関から意見を求められる機会があったので、その時に言った「使いたくない」理由をここにも書いておきたい。

1 障害当事者の声を反映していないこと

 身の回りにいる「障害者」の中で、「障がい」表記に変えてほしいという人にお目にかかったことがない。当事者団体も、たとえば、DPI(障害者インターナショナル)日本会議や障大連(障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議)も、団体名を変えようとしていない。

 障害当事者の間できちっと議論されておらず、納得もされていない「障がい」表記を使うのは、これまで当事者の声を聞くことなく、勝手に決めて押しつけてきた権利侵害の歴史の繰り返しといってよいのではないか。

2 “免罪符”として働く危険性があること

 「害」という字のイメージの悪さをいやがる人がいるなら、変える意義は一定ある。ただ、かんちがいしてはいけないのは、表記を変えたからといって、障害のある人たちがおかれている不利益な状況や、社会の差別意識は全く変わらないということ。

 「らい病→ハンセン病」「精神分裂病→統合失調症」「痴呆症→認知症」のように、負のイメージがつきすぎたことば自体を言い換えるのなら、大きな意義があるけれども。

 それなのに、「害」を「がい」に変えるだけで、人権にすごく配慮しているのだ、障害のある人たちのためにとてもいいことをしているのだ、みたいなムードがある。汗をかかずに簡単にできる表記変更が、差別解消のために何もしていないことの“免罪符”として働いてしまう危険性を感じる。そんな流れには乗りたくない。

3 ひらがなまじりの表記が珍妙なこと

 文章を書く仕事をしている者の感覚から言って、「障がい」という表記は美しくない。ひらがなまじりが何とも珍妙だ。「1970年代の障がい者運動」なんて書くと、あの時代の命をかけた闘いの切実さが伝わらない。「障碍」と書くなら、まだ理解できるが…。

 その後にひらがなが続いた場合、読みづらくなる点もよろしくない。たとえば、「障がいがいつのまにやら」と書くと、どこで切れているのか、非常にわかりにくい。

 以上が、僕の「使いたくない」理由だ。みなさんは、どう思われるだろうか。

 3月19日(金)の第5回障がい者制度改革推進会議でも(ここでも「障がい」だ)、この表記をめぐって議論が行われたようだ。しかし、こんなことに時間をかけるより、もっと優先して議論しなければいけない問題がたくさんあるのではないかと思うのだが…。

 ※障がい者制度改革推進会議(第5回)の資料と映像は下記に。
  
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/kaikaku.html

2010年1月22日 (金)

学校のバリアフリー化は、保護者のためにも必要だ

 「私、学校とよくケンカしたんよ」

 と語りだしたのは、脳性マヒの障害をもつ車いすユーザーの女性。

 その人は、障害があるために「就学免除」とされ、義務教育を受けることができなかった世代。ここで言っている学校とは、その人の子ども(“健常者”)が通っていた学校のことだ。

 何をケンカしたのかと聞くと、さまざまな差別的な扱いに腹が立ったのだという。

 たとえば、教師が、その人の子どもに「お母さんがあんなんやから、おまえががんばらなあかんのやで」と言ったこと。

 子どもの授業参観の時、教室が3階や4階にあったこと(当然、エレベーターはない)。母親が車いすユーザーだとわかっているのに…。「行かれへんちゅうねん」。

 これは自分についてではないが、懇談会で、聴覚障害のある保護者に対して、手話通訳などのコミュニケーション保障がなかったこと。「話できへんっちゅうねん」。

 この話を聞いて、あらためて考えさせられた。

 学校のバリアフリーについて論じようとする時、僕たちは、障害のある児童・生徒のことを思い浮かべる。しかし、障害のある保護者(親)の存在については、意外と意識から抜け落ちているのではないだろうか。

 気づいてみれば、あたりまえのことだが、保護者の中にも少なからず“障害者”がいるし、車いすやストレッチャー(移動式寝台)のユーザーがいる。

 子どもも教師も保護者も地域の人たちも、あらゆる人が集う場所。だからこそ、学校のバリアフリー化はもっと急がれなければならない。

2010年1月14日 (木)

失礼じゃないか。

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「車いす使用の方がエレベーターに乗られるときは できるだけ付き添いの方と一緒にご利用ください」 大阪モノレール山田駅のエレベーター内の表示)

 失礼じゃないか。大のおとなに向かって。

 「できるだけ」という、“けっして強制してないんですよ~”という言い回しが、また卑怯じゃないか。

 ──と思う感覚は、意外と世間には共感されにくいのかもしれない。

 人生で車いすユーザーの友人と出会っていなかったら、僕も疑問を感じることはなかっただろう。

 些細なことといえば、些細なこと。でも、ここに、“健常者”の“障害者”に対する勝手な押しつけのまなざしがよく現れている。

2010年1月 3日 (日)

「障害のある子をいたわる心を」って?

 障害のある子どもは、「いたわられる」べきなのか。

 朝日新聞(2009年12月31日付、大阪本社版)の『知的障害者の高等部 公立高に「分教室」倍増』という記事を読んで、ひっかかった。

 記事の趣旨はというと、障害のある子とない子との交流を進めるために、特別支援学校(かつての“養護学校”)の分教室、分校を一般の公立高校の中に設ける動きが全国的に広がっている、というもの。

 この全体の趣旨にも僕は疑問を感じていて、その点については、別ブログ『大阪発「ともに学び、ともに生きる教育」情報板』で書いている。

 ここで問題にしたいのは、記事の中の以下のくだりだ。

 (公立高校内の特別支援学校の分教室、分校の)設置数が最も多いのは神奈川県。今年度までに11の県立高校に分教室を設け、12年度までにさらに9校で開設する。同県では04年、県立高校2校に初めて分教室を開設。当初は5年間の暫定措置の予定だったが、「高校の生徒が障害のある子をいたわる心を身につけられる」として方針を変え、設置校数を増やしている。

 「高校の生徒が障害のある子をいたわる心を身につけられる」。一見、いいことのように思える。実際、障害のある人とつきあう時は、支えの手を差し伸べる場面も必要だ。

 しかし、ひとからげにして、「(障害のない)高校の生徒」が「障害のある子」を「いたわる」のだと言われると、ちょっと違和感を抱かざるを得ない。

 だって、僕のこれまでの人生では、障害のある人たちから「いたわられ」たことは何度もあるし、ものの見方や生き方について、豊かな価値観を教えられた経験も数えきれない。

 僕自身、“重度”の障害のある人と接する時はいまだにとまどっているけれども、やはり、対等なつきあいは、一方的に「いたわる」「いたわられる」関係からは生まれないと思う。

 「障害のある子をいたわる心を」という考えからつくられる制度は、障害のある人とない人とがともに生きる関係を、むしろゆがめてしまう危険性をはらんでいるのではないだろうか。

2009年9月 2日 (水)

「これは人間が乗るもんやない」

 「こっちは、あくまでも荷物用。人間が乗るもんやないんや」

 そのひとことに、脳天を撃ちぬかれる思いがした。

 もう2カ月ぐらい前。新幹線の新大阪駅ホーム。知り合いの人工呼吸器ユーザーの青年が、東京で講演をするために出かける場面に、僕はいあわせていた。

 ストレッチャー(移動式寝台)に寝た状態で移動する彼は、改札階からホームに上がるのにエレベーターを使う。しかし、一般のエレベーターだとせまくて、彼が乗るには、ストレッチャーの一部を取り外したり、折り曲げたりと、たいへんな苦労が必要だ。

 そこで、こんなときは、スペースの広い貨物用エレベーターを使う人も多い。

 ところが、彼はわざわざ乗りにくい方を選んで、敢然と一般のエレベーターで上がってきた。

 「貨物用だったら苦労せずに乗れるのに、どうして?」と不思議な顔をしていると、同行していた障害者運動のベテランのおっちゃんが言ったのが、冒頭のことばだ。

 (青年は障害のために言葉を発しないので、そのおっちゃんが代弁してくれたのだ。)

 おっちゃんは、続けてこう言った。

 「人間用のエレベーターに乗り続けて、改善させていかなあかん」

 僕は、そのとき、自分の甘さを恥じた。人間用ではなく、貨物用を使わされることの痛みに全く気づけていなかった。

 厳しく問われなければならないのは、呼吸器ユーザーをはじめ、少数派の人たちをどこかで人間扱いしていない僕たちの価値観だ。

 目先の手軽さにまどわされて、大切なことを見失ってはいけない。

2008年8月11日 (月)

手話は演出の道具ではない

 やった人は、美しい心からしたのだ。でも、美しい心だからこそ問題だと思うので、あえて書く。

 いいたいのは、「手話」が舞台演出のアイテムにされる不愉快さだ。

 先日、僕が参加したあるイベント。講演の合間にギターの弾き語りがあるという形式のもので、始まりから終わりまで、ずっと手話通訳はついていなかった。

 ところが、ラストの曲になって、舞台に手話コーラスをする人たちが登場し、歌詞を手話で表現しながら踊りはじめた。それで“感動”のエンディングとなった。

 場内のほとんどの人たちは、素直に感動していたと思う。イベントの主催者は「手話の豊かな表現を感じてほしい」みたいなことをいっていた。

 しかし、これは聴覚障害のある人をバカにしていないか。

 確かに、手話は豊かなパフォーマンスの魅力を持っているが、それ以前に、ろう者の独特の言語であり、大切なコミュニケーション手段だ。

 講演に手話通訳をつけないのは、意識しようがしまいが、耳の聞こえない人には聴いてもらわなくていいという姿勢の現れだ。つまり、聴覚障害のある人たちとのコミュニケーションを拒否していることになる。

 参加を拒んでおきながら、その相手の言語を、舞台を盛り上げるアイテムとしてちゃっかり活用する。とても失礼なことだと思うのだが、どうだろうか。

 ところが、実は失礼なことなのに、手話を使うと、優しく美しいことをしているかのようなムードになる。また、演じている本人たちも、そう信じこんでいるのが悩ましい。

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